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祁答院町黒木817-4で整体してます。

【楽しむこと】

2007/6/21 
               
ちょっと感傷的ですが、楽しむことの意味を考えてみます。

4年ほど前に母が亡くなりました。
悪性リンパ腫になり、完治と言われながら再発、そして再再発し、入退院を繰り
返した母を、幸いなことに最後の一ヶ月半の間、ずっと傍にいて、看病すること
ができました。

そして最後にもらった言葉が「心をここにおいて」でした。

抗がん剤の治療を受けると痛みが出ると言われます。この最後の言葉は、病院を
出て自宅療養の最後にやって来た激痛の中、慌てている僕に向けて発せられた言
葉です。僕の膝に這い上がって、僕の膝を叩きながらはっきりとしゃべった最後
の言葉です。その頃の僕は、まだ専業の施術家としての人生を始めたばかりで、
息を深くすることもできずに、母の言葉の意味もよくわかりませんでした。

母は入院し、モルヒネによって痛みを抑えた状態で最後を迎えました。それから
しばらくたって、母の言っている意味が何となくわかった気がしました。

「心をここに置く」ということが一体なんなのかを考え続けて数ヶ月した頃に、
母が発していた別の言葉と同じなのだということに気付きました。その頃に書い
た日記をここに転載します。

****「楽しんでいくよ。」****

ふと気付くと。色んなものを手にしていた。
実の母にもらった、ただで乗ってる車。義理の母のお陰で借りられた、家賃も税
金もかからない家。去年はじめた、手ぶらでできる仕事。ミクシのおかげではじ
まった、距離も時間も関係ない友達との対話。「不食」がくれた、食べられない
ことへの恐怖のない生活。晴哉さんがくれた、病気を恐れなくてもいい自分の体
への信頼。もっとたくさんのもの、そして、神様がくださった、何よりも美しい
家族。

あとは何が必要なのか?なぜ「必要なもの」という幻想を追いかけていくのか?
そもそも必要とはなにものなのか?

今もっているものの素晴らしさを忘れて、持っていないものばかりに心をとらわ
れ、追いかけていた。

「持っていないもの」すなわち「必要なもの」なのか?きっと、そうじゃない。

母が最後に言った僕に向けた言葉。

「心をここにおいて。」

ここにおいているつもりになっても、忘れていることがたくさんある。ここがど
こなのかわからなくなることがある。なぜできないのだろうか?

僕が子供の頃から、母が僕にいいつづけてきた言葉。「楽しんでおいで。」試験
に行くときも、遊びに行くときも同じ言葉だった。いつも微笑んでそういってい
た。

そう、「心をここにおく」 一番の方法は、きっと、「楽しむこと」 なのだ。
ホントにたった今、この文を書きながら気がついた。

今もっているものを楽しんで。今やっていることを楽しんで。それなら心はここ
にある。この瞬間、瞬間を楽しんでいられれば、後悔もしないはず。いつ死んで
もいいはず。先のことばっかり考えないで、昔のことばっかり考えないで、しか
めっつらしないで、微笑むこと。楽しむこと。

「必要なもの」は、すでに手にしている。今ここにあるものすべて。車も家も仕
事も友も安心も信頼も家族も、それがのっかってる地球も宇宙も、それを構成し
ている分子や原子や素粒子も、

心をここにおいて
楽しんでいくよ。