genki switch

祁答院町黒木817-4で整体してます。

【ドンピシャ】

 【セトリング】http://d.hatena.ne.jp/genkiswitch/20121025 で書いた内容の補足説明になります。といっても↑は短いのに良く書けていると感心しました。自画自賛。(笑


 そもそもどうして「settle/セトル」などという馴染みのない単語を使っているのでしょうか。
 三軸修正法の池上六朗さんが「術者は『治す』のではなく『何かをする』、そして『以前と違う状態』になる。」と話しておられました。術者の目的は治すことですが、実際は治すというよりは『何か』をするだけなのです。この『何か』はもちろん筋骨格への刺激から呪文を唱えること何かを食べることまであらゆることが含まれています。これは「何かをして一つの状態が別の状態に『移る』」ことだと理解しています。この『なる』と『移る』の違いが大切です。これまで様々な方法を用いて行って来たことは、状態を移すだけです。もっといえば移すのは相手のカラダの働きで、こちらは「移るキッカケ」をカラダに与えるだけなのです。結果的には『なる』のですが、『移る』という流れが存在することが肝心なのです。ではどういう状態に移るのかと言うと以前より「安定」な状態です。エネルギー的に低い状態へと移ります。それを表す言葉を探したのです。


 セトルに「ing」を付けた「settling/セトリング」と言う単語自体は、以前働いていた会社の『半導体製品』の仕様の中の「セトリングタイム」という項目も影響しています。セトリングタイムとは、例えば、OPアンプICが動作状態で入力がゼロに変化したときに出力がゼロと見なせる程度に変化するまでの時間を言います。なぜかこの言葉が好きで仕様書を見ると必ずこの部分を気にしていたことを想い出します。


 以下は、以前も書いた「settle/セトル」の意味です。「議論を終わらせる」「移住する/住み始める」「下方への変位」「心地良さ」「静けさ」などを意味します。例えばモノは高いところ=位置エネルギーの高い状態から低いところ=位置エネルギーの低い状態へと落ちて行くのが自然です。つまりエネルギー的に不安定な状態からより安定な低い状態へ移る。そしてそれがこの世界の指向する方向なのです。その自然に逆らって特別なことをしたところで相手を壊すのが関の山です。カラダの自然にしたがって動かしたり揺らしたりするだけでカラダは変わり始めます。
 そしてその目的地への「移行」を「settle」と呼んぶことにしました。実際単語の意味にあるように「心地良さ」を伴いますし、感覚的には「静けさ」を感じることができます。全部ごっちゃにして「ごちゃごちゃと各部分がモメている状態を(エネルギー的に)安定な下方への移行によって解決し、心地の良い静けさを持つ場所(カラダ)に住み始める」というその単語の意味全部が思ったところにあるドンピシャの言葉だったのです。

【食物の秘密】

 身土不二とも言われますが、身近な場所で取れたモノを食べることがカラダに良いという考え方があります。ボクの言うセトリングコンセプトから説明を試みます。エネルギーが高いものをとるという考え方では説明できないのが身土不二です。もちろん身近な材料が遠くに運ばれることによって失うものもあるでしょう。ですが、その説明はエネルギーという言葉で理解されにくい。言ってみればエネルギーという言葉が誤解を招き理解を妨げています。


 少し具体的に行きましょう。食べ物を得るには様々なエネルギーが必要です。その実際の量は判らないものの、プロセスの一つ一つはエネルギーが使われていますから、プロセスを数えるだけでも参考になります。農作物の場合、種を蒔くところからはじめて成長過程では水を与え(一般的には)消毒、施肥をします。成長後には、収穫、洗浄、「箱詰め、出荷(トラック、列車、航空機)市場での売買、販売店(工場)まで搬送、店舗での出荷準備もしくは加工、消費者が購入」、自宅まで持ち帰り、調理して食事。細かいことを省いてもこのくらいのプロセスが考えられます。それに対して自宅の庭で取れたものを食す場合、「カギカッコ」の中のプロセスは不要です。プロセスその一つ一つが何処かに記憶されているという前提ですから、ある一つの食品が口に入るまでのプロセスが多ければ多い程エネルギーの合計は多くなります。摂取したモノから必要な成分を取り込んでそれ以外の不要なエネルギーを排出するにはカラダはそれだけ余計に働かなければなりません。もし排出できないエネルギーがあればそれは何処かで安定な状態をとることになり、カラダの中に偏り、つまり病気や不調が作らます。身近なところで取れた食品であればそんな必要がありません。ですから身近な場所で取れたモノを摂取するコトはカラダに負担をかけないのです。それだけでなく、新たに取り込まれた不要分が少なければ、それまでに取り込んだ不要なエネルギーを排泄することができますから、カラダは快方向へ向かいます。


 では消毒や化学肥料が使われることはどうでしょうか。これは作物の収穫後加工時に使われる添加物なども同じです。それは石油や天然の材料から精製され合成されるまでのプロセスが多く、その分一旦取り込めば排出すべき過剰なエネルギーを持っているからです。また、自然界には存在しないものを作る訳ですからかなりのエネルギーを必要とします。その集積されたエネルギーの塊で食事を作リ食べることは、その多すぎるプロセス=エネルギーを体内に取り込んでしまうことになります。人は取り込んだその農薬や化学肥料のエネルギーをも排出する苦労を背負い込むことになるのです。それは精製度の高い食品なども同じで、真っ白な食品などその働きや成分から害であるとされるものも、このエネルギーの線上に乗せれば精白していないものの方がカラダにとって有利なことがわかります。とは言っても米をモミのまま食べることはできませんし、消化器の弱っている人が玄米をとっても吸収されることはないでしょうから、人に合わせて食べられる程度の加工が必要なことは言う間でもありません。面白いのは加工に使うエネルギーによって旨味が変わることです。たとえば機械で大量に製粉したものは、その搬送過程においても薫りが飛んでしまって美味しくないとは言われます。ですがそれだけでなく石臼引きは美味しいと言われますし、電気で挽いていれば手で挽いたもののほうが美味しいと言われます。成分で説明できるでしょうが、同時にこの使用したエネルギー量という点から観れば説明がつきます。そういう視点で見ても無農薬無化学肥料で自然栽培したものの旨さの理由が判りますし、自然栽培の中でも味に差が出る理由が判ります。


成分やカロリーに頼っていては身近なものが身体に良いものの理由は判りません。身近で収穫されたものを食べることは「余分なエネルギーの少ない安定したモノ」を食べるということなのです。それがカラダに余計な作業をさせず、必要な成分を摂取するだけでよい。人は食物を消化することだけでなく余分なエネルギーの排出にも自分の身体を使わなければならなくなると考えればわかりやすいかもしれません。「エネルギー的にはスカスカの滋養に満ちた食品をとることが大切だと言うのが「身土不二」という仏教用語で語られる食養生の基本と考えています。

【モニタ勝負】

稀に例外もありますが、どんなに歌のうまい人であっても自分の声が聞こえない状態では上手く歌うことができません。テレビなどでも、歌い手がイヤホンのようなモニター(自分の声が返ってくる装置)を付けて自分の声をコントロールしている様子がわかります。もちろん例外はあります。先日素晴らしい歌を聴かせてくれる耳の聴こえない歌手をYouTubeで観ました。ですがその歌手ですら自分の唇の動きや音の伝わる様々な感覚で自分の歌をコントロールしています。耳以外の感覚をモニターとして使っているのです。ではボクの仕事である身体調整ではどうでしょう。あくまでも他人のカラダを動かす訳ですから感覚的にモニターできないと考えがちです。ところがヒトとヒトの間には不思議な繋がりがあります。スピリチュアルなものではなく、実際に体感できるコトです。一人のヒトが嫌なことを考えるとそのヒトの身体は緊張します。歪むと言っても良いかもしれません。すると面白いことに周りのヒトの身体も歪むのです。何がそうさせるのかは判りません。ですが実際に柔軟性、例えば前屈するなどして確かめることができます。ということはボクの調整がうまくいけば相手のカラダは緩み、そしてボクのカラダも緩むということになります。ただし先入観などがあれば上手く気付けないこともあります。自分の緊張が相手のリラックスした状態を上回っていれば、感じにくくなります。それどころか緩んだ相手をもう一度緊張させてしまうことにもなりかねません。何をやっているのか判らなくなりますね。身体調整のモニターは自分自身です。そして様々な思いや不安がよぎることはあるにせよ、それらに影響されない安定した状態で相手に向かうことで相手の状態を自分の中でモニターできます。それは相手を壊す可能性も低くなることを意味します。モニターできるかどうか、どこまで聴こえているかで歌の表現力は違ってきます。それは身体調整も同様でどこまでモニターできるかが大切なことであって、技量や知識の程度の違いが大切な訳ではありません。どこまで自分の状態を捉えられるかが勝負です。

【ガリ版文字】

略字について調べていました。略字の由来について複数の意見があります。もともと略字というのは、ささっと書くために面倒な部分、画数の多い部分や運筆の複雑な部分を除いて作られたものでしょう。ですが急いで書きたいためだけに作られた訳ではないかも知れないと、想い出したのが昔の印刷物です。今はコピー機やプリンタが身近にある為にすっかり消えてしまいましたが、ガリ版と呼ばれた印刷機をおぼえておいででしょうか。謄写版というのが本来の名称ですが、ヤスリ板の上にロウ紙を置き、鉄筆で書く音はまさに「ガリガリ」です。こどもの頃の学校からの印刷物と言えば、わら半紙にガリ版刷りでした。この版になるロウ紙というのが破れやすく、文字や数字の書き方に様々な工夫がみられます。例えば数字の「8」をロウ紙の上に描こうとすれば、真ん中で運筆が交わってしまいます。交わると破れることが多いガリ版文字の「8」は「○」を上下に重ねて形を再現します。ボクのいた小学校では、学校住み込みの用務員さんがこの文字のエキスパートで「ガリ版文字講座」なるものが開かれ、母がその講座に参加した記憶があります。その講座資料には様々なガリ版専用の略字も載っていました。今風に言えばガリ版フォントでしょうか。味のある優しい文字で、インクのにおいとともに頭に浮かんできます。考えてみればそれ以外にも、その昔は筆で墨を使い和紙に書いていました。水性の墨で水で破れ易くなる紙に書く訳です。狭い部分に繰り返し線を書いていれば破れやすいしにじみやすい。略字が出来る過程にはそんな材料が要求する事情もあったのかもしれません。人はヒトの特性だけで行きている訳ではなく、ヒトの作り出したものや環境に要求されたことに適応しながら生きています。急いで書くために略された文字や技術的要求から略された文字が今便利に使われているのです。現在はと言えばパソコンを使ってどんな難しい文字でも書けますし(書いたとは言わないかもしれないけど)印刷だってすぐに出来ます。逆に略字で書きたいと思うと困るくらいです。視点を少し変えると人が便利に使っているものが、表に現れにくいヒトの工夫の賜物だと気付きます。

【踊るオヤジ】

genkiswitch2017-09-08

何故か踊っています。いやホントに。小学校のマスゲームでは「恋ダンス(超簡単バージョン)」、中高の学園祭の前夜祭の余興では「伊佐市歌(※1)」を。どちらも振り付けは同じ先生でシンプルな動きで組立ててあります。昔から踊りを覚えるのは得意ではありませんが、このところ少しだけ覚えが良くなったような気がします。何故か。整体を始めてしばらくしたころからヒトの動きが見えるようになったからでしょうか。20数年前に表現者の為のバレエ教室に通っていたことがあります。どちらかというと教室の後の飲み会が目的でした。そのころは、目の前で踊られても動きの一つもトレースできませんでした。バレエの先生には「ヤマシタは考えてからやった方が早いよ」と言われたことを覚えています。それが少し早くなって来た。それはたぶん「動き」を考え続けて来たことで、考える速度が上がっているのかもしれません。こんなところでも仕事が役に立つとは思いませんでした。だからといって人と較べてカッコ良く踊れる訳ではありません。念の為。(笑)


※1伊佐市歌は「いさはとってもい〜さ♬」と始まるとてものどかな歌です。ここで聴けます。http://www.city.isa.kagoshima.jp/about/audio/song1.mp3

【ヘッドホン】

genkiswitch2017-09-07

20年数前、世界唯一の構造を持つヘッドホンを購入したことがあります。メーカー名は「FONTEK RESEARCH」たった一人のガレージメーカーです。製作者の丹羽さんは有名メーカにも在籍しておられたようですし、音楽雑誌で文章も書いておられました。コンディション管理が独特で、綿棒で耳の調子を確認し、今日は駄目だと思うとその日は仕事をされないという話でした。そのヘッドフォンの音はと言うと、とても自然で心地の良い音でした。解像度だけが際立つ訳ではなく何かが特別聴こえるという訳でもないのに耳を澄ませば今まで聴けなかった音や空間がそこにあって、音楽が楽しくなった記憶があります。注文をしたのは春頃、出来上がってきたのは、秋から冬に変わる頃でしたからずいぶんとゆっくりでした。時間がかかるだろうとは思ってはいましたが、夏になっても出来上がって来ないのは体調でも崩されたのかと様子伺いの電話をしてみると「ヤマシタさん、暑くて音楽どころじゃないでしょう。」と笑いながら答えが返ってきました。全くその通りでその年の暑さの中、両耳塞いで音楽なんか聴けないやと納得しました。このやりとりを想い出すと、納期がはっきりしている最近のモノ作りは、良いことばかりではないかもしれません。どれだけ自動化された製造工程にもヒトが介在しています。全てが自動と言ってもその自動機は他の自動機が作った訳ではありません。ヒトが調子が悪い時に作ったものの出来が良い訳がありません。(これは触れるヒトの状態で機械の状態が変わるというデモが出来ます。)そして出来の良いものが完成しても時に適っていなければその能力はムダになってしまいます。ヒトの調子も考えて仕事や遊びの出来る世の中になったら、もっと素敵な世界になって素敵なものが生まれてくるでしょう。そんなことを考えさせてくれる丹羽さんの一言は、今も時折耳元で聴こえてきます。あせってしまう自分にお茶を勧めてくれる一言です。


※ヘッドホンに関してはこのサイトを参考にしてください。http://20cheaddatebase.web.fc2.com/fontek/FONTEKindex.html

【高齢者大学】

genkiswitch2017-08-26

先日、とある公民館の「高齢者大学」なるもので話させていただきました。タイトルは「歳だからってあきらめないで・・・一つの心得と三つの体操」。40名程度でしょうか。90分を越える話と実践を、みなさん目を輝かせて楽しんでいただきました。年配の方々を相手にしてはいるものの、まさかの「能力の向上」を目指した話です。「あきらめないで」欲しいというのは現状維持の意味ではなく、もっと「出来ることを増やす」ことを考えて欲しいという意味です。効率を良くしたり、今まで出来なかったことが出来るようになる。ある意味高齢者という枠ではあまり話されないことです。ですが一人の人間として向き合った時に、高齢者だからといって話のゴールを変える必要はありません。そして出来ることを増やすことは可能です。ただ、こういう講座を開くと潜在的なお客さん数が減ります。ですが、それこそカラダの調整に携わるものが目指すべきことです。営業的な面から言って、お客さんを維持するには治らなければ良いのです。適当にやっていれば良いかもしれない。でも、もう来なくてもいいようにしようと思えば、ただ治るだけでなく再度同じ故障が起きにくくしなければなりません。そして、自分のカラダやココロに自信が持てるようになってもらう必要があります。それには心がけや一人で出来る体操が大切です。講座の中では、「心がけ」がカラダを歪ませ硬ばることを体験していただきました。また、カラダの動きを正しく教わった人はほとんどいませんから、体操を通して教えてあげてほしいという実践でした。ご本人達は気付かれなかったかもしれませんが、講座が終わって帰られる姿は、来られたときよりずっと背筋が伸びて胸も開き、首も伸びて表情が明るかった。呼んでいただいて嬉しかった。公民館の担当者の方、本当にありがとうございました。また、呼んでね。(笑)